住環境計画研究所の歩み

HISTORY

第3回 1980年代(前編)

※この記事は住環境計画研究所の創業者であり、代表取締役会長である中上英俊に対するインタビュー記録(2016年6月27日に実施)に一部加筆して再構成したものです。インタビュアー(青字)は住環境計画研究所の所員です。

①宮城県でローカルエネルギー調査に取り組む

二度のオイルショックを経て1980年代に入り、エネルギー問題への社会の対応は変わってきたのでしょうか。

第2次オイルショックがあった1979年に、ちょうど省エネルギー法(エネルギーの使用の合理化に関する法律)が制定されたんだけれど、この頃から日本は本気で省エネに取り組み始めたというのが僕の実感だね。1970年代まで民生用のエネルギーに関する研究は、日本エネルギー経済研究所が細々とやっていたくらいだけど、省エネルギーがいよいよ社会問題になってきたので、色々なシンクタンクが委託研究を取り始めたわけだね。

それより数年前だったと思うけれど、省エネルギーセンターの設立に向けた検討会に参加していた。当初は、日本エネルギー経済研究所の中に省エネルギーセンターを設置する案もあったんだけれど、それは消えて、1978年に日本熱エネルギー技術協会が母体になって設立された。前身の協会は全国各地に支部があって、工場の熱エネルギー診断を実施してきた実績があるから、目的に適っていたのかもしれない。

前回、住宅の省エネ基準につながるお話をうかがいましたが、ローカルエネルギーに関する調査もこの頃でしたよね。

オイルショックで石油の輸入が途絶えるかも、という危機感があったから、省エネルギーだけでなくローカルエネルギー、今でいう再生可能エネルギーが国内でどれくらい利用できるかを調べようという話になった。当時としては画期的だったと思うんだけれど、通商産業省が全都道府県に補助金を付けて、統一の方法で調査を求めたんだ。再生可能エネルギーの賦存量だけでなく、エネルギーの消費実態も調べて、2000年の需給バランスを検討するという内容でね。

その調査マニュアルを作るタスクフォースのメンバーになって、調査票や調査手法など事細かなことを検討したんだ。他にも2社のシンクタンクが入っていたと思う。どちらも今はもう解散したか、エネルギーのことをやっていないと思う。
全国一斉調査といっても、一度にはできないだろうということで、1年目は半分の都道府県に手を挙げてもらって、2年目に残りの都道府県が実施する形になった。僕たちは調査マニュアルを作った立場だから、それを持ってセールスに行ったんだけれど、あらゆるシンクタンクが出てきていてね。

やはり宮崎県ですか。

そのつもりだったんだけれど、宮崎県はもう別のシンクタンクに決まっていてね。それで土地勘は無かったんだけれども、宮城県に行くことにしたんだ。担当係長さん(熊谷弘康さん)は、当時35歳だった僕をみて「あんたが所長か?」という反応でしたよ。それはともかく、宮城県も大手のシンクタンクに発注することが内定している様子だった。

ただ、せっかく来たんだから、調査マニュアルを作った立場から何をしなければならないか1日がかりで全部説明してあげてね。そうしたら係長さんが気に入ってくれて、部長のところに頼みにいってくれたんだ。もちろん、内定を覆すのは大変だったと思うんだけれど、最終的にうちに決めてくれたんだよね。これはもう意気に感じてやるしかないよね。

東北新幹線もない時代だから東京から在来線で5時間くらいかけて行ったり、寝台列車で行ったりしたね。再生可能エネルギーの賦存量を調べるわけだから県内各地をまわることになる。宮城は温泉地があるから、どれくらい地熱を利用できそうか検討したり、農業の廃棄物をどの程度バイオマスで利用できるか計算したり。産業から家庭まで、エネルギー需要の方も調べるから、役場にいって調査票を渡して、こういうふうに回収してください、とお願いしてくる。

施設栽培における自然熱利用の研究施設を見学(宮城県泉市(現在の仙台市泉区))

あちこち走り回って情報を集めてくるのは、農村計画の進め方と似ていますね。まとめるにあたって、どのような工夫をされたのでしょうか。

最終的には2000年にどういうエネルギー需給構造になるかを推計するわけだけれど、うちの場合は自然体ではエネルギー需要はこうなりますが、省エネルギーを徹底すればここまで減ります、というシナリオを出したんだ。省エネルギーを徹底すれば、再生可能エネルギーの利用割合は高くなるわけだね。そういう報告書を作った。これが1981年3月のこと。

最後の報告会のために、前泊で仙台入りしていたんだけれど、寝坊して大遅刻をしてしまってね。東北大学の先生方と県庁の偉い方がずらっと並ぶような場だから、もう本当に恐縮して、とにかく全部報告して「来年はこういう計画で準備をしているから、ぜひ良いシンクタンクを探してやってもらってください」と締めくくった。それでも翌年も依頼してくれたんだけれども。

評価していただけたのかもしれませんが、危なかったですね。

東北大学の教授が各分野から6人も出ておられてね。委託先の民間シンクタンクの所長は35歳の若僧にすぎないから、最初は注文が多くて大変だった。そこで、先生方の研究室を順番に訪ねて、「今回の仕事はこういう目的で、こういう条件ですから、先生のおっしゃるところまで深掘りはできません。我々は博士論文を書こうというわけではありません。」と説明していったら、段々と任せてくれるようになってね。先生方は専門領域のことは詳しいけれど、何しろ幅広い調査について全体を押さえているのはこちらだからね。段々と気心も知れてきて、やり易くなってきた。最終的には、化学工学の大谷(茂盛)先生が、この報告書のことを学会で好意的に紹介してくれたらしい。


②鳥取県からの調査依頼を引き受ける

翌年の1981年度には鳥取県でも調査していますね。

これも大変だったね。2月頃に最初の依頼の相談があったんだけれど、その時期は忙しくて会う時間もとれそうにないから、「4月になったら来てください」と伝えたんだ。そうしたら何と4月1日に行きたいと連絡があってね。あちらも飛行機代が出ないらしく、朝早くから電車で東京まで来てくれたんだけれど、再生可能エネルギーの調査は鳥取大学に依頼するから、お宅は需要と取りまとめを、予算の半分の金額でやってほしい、と言うんだよ。宮城県での経験からみて厳しすぎる条件だから、その場で断ろうとしたんだ。そうしたら、上司の方(当時、鳥取県商工労働部課長補佐の小坂さん)が担当者(同所係長の山崎さん)に向かって「君は断られると分かって朝早くから私を連れてきたのか!」と僕たちの前で叱りだしてね。気の毒になって引き受けざるを得なくなったんだ。

当時の話をうかがっていると、仕事の決まり方がドラマティックと言いますか、印象深いものが多いですね。

それは僕の人との付き合い方が関係していると思う。無茶な要求に応えてしまって、と思われたかもしれないけれど、僕も周りの人に甘えてきた。僕からみれば、みんなは自己規制をかけて人と付き合っているようにみえる。僕はまず徹底的に甘えてみる。どこまで許せるかは、人によって違うから、止めてくれという人も出てくる。そうしたらそこで止めればいい。遠慮して手前に線を引いてしまったら、許容力のある人からは「この人は打ち解けてこないな」と思われてしまう。勿体ないよね。せっかく人と深い関係をつくる機会があるのに。

自分の浅い経験で、どんどん安全側に線を引くようになってくると、確かに問題は起きないけれど、面白いことも起きないんだよ。

嫌われることもあるかもしれないけれど、大ファンになってくれる人もいますよね。そこから仕事が立ち上がれば、きっと面白いでしょうね。会長のそういう気質は、子供のころからそうだったんですか。

そうだね。子供のころ、転校が多かったんだけれど、転校というのはものすごいプレッシャーがあってね。変わるたびに新しい環境になるわけだから、そこである種の立ち位置を得るには、何かで認められないといけない。加えて僕は背も低くて、中学生くらいまでは、いつも一番前だった。そういうコンプレックスもあったから、突き抜けてやろうという気持ちがあったんだろうね。幸い勉強も運動も得意な方だったから、一目置かれやすかったし、もともと外向的な性格だったのかもしれないけれど。

話は戻るけれど、鳥取県でも、こういう調査をやったことで、わが社のエネルギーに関する調査のスタイルが確立したと思うよ。

地域のエネルギー需要を調査し、省エネの可能性を考慮して、エネルギー供給とマッチさせていく方法ですね。

そう。こういう調査をして、計画を作った後は、具体的な施設の実現可能性調査(フィージビリティスタディ)にも取り組むようになった。宮城県はコメの産地だから、もみ殻を利用してバイオマス利用を検討した。もみ殻には燃え切らずに残ってしまう成分があって、普通の焼却炉だと難しかった。それから、さっきも話したように、温泉があるから温泉の排熱利用も検討した。鳥取県では風車を検討したり、魚の加工工場から出る廃棄物のメタン発酵を検討したりしてね。当時の原油価格でも経済性は厳しかったから、原油価格がどこまで上がったら採算が合うか、といったシミュレーションをしたんだ。

当時の写真に、川で測量のようなことをしている様子がありますが。

これは宮崎県の日之影町での調査で、小規模水力発電のポテンシャルを検討するためだね。

小水力発電の可能性を探るため水量を測定

まだ太陽光発電は無いわけですね。

太陽光発電はまったく現実的ではないから、話題にもならなかったね。検討対象になったのは風力、中小水力、波力、地熱、バイオマス、それから地域によっては温泉の熱あたりまでかな。

太陽熱温水器は既にありましたね。

太陽熱温水器はオイルショックで大ブームになって、爆発的に売れたんだけれど、一部で売り方に問題があって評判を落としたね。それはともかく、温水器は沸かしたお湯を風呂桶に入れるだけの簡単なものだったから、セントラル給湯システムに組み込むことが求められるようになってくると、なかなか普及が進まなくなったね。

話は飛ぶけれども、当時、給湯システムについて重要な役割を担っていたのはガス会社で、彼らにとって太陽熱利用はガスが売れなくなる技術だから、入れたくないよね。たとえ消費者には良いことでもね。ユーザーに軸足を置く人は少ないんだ。

会長がユーザーを第一に考えるようになったのは…

前にも話したけれど、農村計画の経験からですよ。町中、村中を走りまわって取り組み課題を集めてきて、じゃあどこから手を付けるかという話になると、集落間で揉めるのは目に見えている。それを役場が判断しようとすると、足の引っ張り合いになりかねない。そこで我々のような利害関係のない第三者が理屈を考えて、指標をつくって、優先順位をつけていくわけだ。そんなとき、ユーザー第一で考えてあれば、文句も出にくいわけだよ。


③10周年記念プロジェクトで「家庭用エネルギー統計年報」を刊行する

自治体ではなく、エネルギー事業者とのプロジェクトになりますが、1983年に創業10周年記念プロジェクトを実施されました。

10年経った記念に何かプロジェクトをやろうということで、家庭用エネルギー需要の将来を研究しようということで、電力・ガスの大手4社にスポンサーになってもらったんだよね。将来を考えるには、これまでの家庭用エネルギー需要をきちんと整理しないといけないから、家計調査(総務省)の光熱費支出データをもとに、家庭のエネルギー消費量の時系列データを作ったんだ。

このデータの研究プロジェクトでの位置づけは、いわば資料編だけれど、それでは今回限りになってしまう。そこで「家庭用エネルギー統計年報」という名称にして、ハードカバーで作って配ることにしたんだ。そうすれば翌年も欲しいと思うかもしれないと思ってね。

商売上手ですね。社内では単に「統計年報」と呼んでいますが、30年以上、続いていますものね。エネルギーの分野には政府刊行物として、赤本(総合エネルギー統計)、青本(電力需給の概要)、黒本(電源開発の概要)がありましたが、若いころに先輩から、「統計年報は“白本”と呼ばれている」と聞きました。冗談だと受け止めていましたが。

そういう気概でやっていたということだよ。僕の部屋の書棚にあった発行年が古いのは背表紙が茶色っぽくなっているけれど、新しいのはちゃんと白いね。その頃から禁煙したんだね。

第4回に続く

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