住環境計画研究所の歩み

HISTORY

第4回 1980年代(後編)

※この記事は住環境計画研究所の創業者であり、代表取締役会長である中上英俊に対するインタビュー記録(2016年6月27日に実施)に一部加筆して再構成したものです。インタビュアー(青字)は住環境計画研究所の所員です。

④企業誘致という難題にリゾート計画という答えをひねり出す

このままエネルギー専業になっていくのかと思えば、リゾート計画という意外な方向にも進んでいますね。

1980年代半ばごろだね。さっき、鳥取県の担当者が4月1日にやってきた、という話をしたけれど、その方が県内の岸本町(現在の伯耆町)から相談を受けていてね。企業誘致の相談だった。でも、事前に少し調べてみたら条件が厳しくて、僕たちが計画を立てれば企業が来るというような、甘い話はありそうもない。来てくれと言うから、一応行くことにしたんだけれど、断ろうと思っていたんだ。

僕と田中君(田中章夫さん。のちに計画調査室長)で東京から出向いて、役場に到着してすぐに町長さんに形式的な挨拶をして、それからたくさんの課長さんたちが集まっている席に引き込まれた。そこで助役さん(故・来海さん)から熱心に頼まれてね。「県庁に相談したら、良い方がいると紹介していただいた。何とかしてください」と頭を下げられてしまった。

「どうする?」と田中君にささやいたら、「雰囲気に乗せられて了解しては駄目ですよ。絶対に断ってください」というんだよね。
でも助役さんは良い人で、一生懸命に「何とかお願いします」とおっしゃるものだから、まずは「この町の売り物はなんですか」と聞いてみたんだ。そうしたら「ネギとスイカです」と言うわけ。

「残念ですが、ネギとスイカで企業は来ませんよ。お金が無駄になるから、違うことに遣った方がいいと思います」と言って、勘弁してもらおうとしたんだ。でも、居並ぶ課長さんたちの前で、助役さんの面目をつぶすのも申し訳なくてね。結局、引き受けちゃった。

これも人付き合いなのでしょうけれども、担当者は不安でいっぱいですね…

さあ、どうするかだ。地下水から工業用水がどれだけ取れるかといった堅い話もあったけれど、厳しいんだよね。ところが、鳥取には大山(だいせん)という高い山があって、非常にきれいな山なんだよ。後ろから見ると富士山みたいでね。冬には大山でスキーができる。夏には15分ぐらいで海水浴場にも行ける。こんな立地はなかなか無いぞと思ってね。「これだけの自然があって、ゴルフ場も二つあるんだから、リゾートにしたら良いじゃないですか」と言ったわけ。そうしたら、「リゾートって何ですか」と返ってきた。

当時はリゾートという言葉も珍しかったのですね。

そうだったね。僕らがリゾートを提案したのは、3月末までに全部の仕事を終えて、4月に社員旅行でハワイに行く習慣があったからなんだよ。この数年前からだったと思う。ハワイで何をするかというと、海で泳いで、疲れたらボーっとするだけ。それを1週間くらい続ける。そういう経験から、リゾートというのはボーっとする所だという実感を持つようになった。

そんな感覚でリゾートを提案して、計画をまとめて報告書を出し終わったら、役場で助役さんから苦言があってね。「霞が関でリゾート法を作ろうとしているのを知っていて、何も教えてくれなかった」と。

調べてみると、総合保養地域整備法、通称リゾート法が1987年に制定とあります。

僕らは本当にその動きを知らなかったんだよ。それで岸本町の報告書をもって、通産省や建設省に法律のことを聞きに行ったんだ。そうしたら彼らが「勉強したいから報告書を見せてくれないか」というわけ。役人もリゾートのことを知らないんだよ。

当時はオイルショックの記憶も薄れて、バブル景気に入っていたから、あらゆるデベロッパーがリゾートブームに乗り込んできたところでね。海外視察をしようということになった。「アメリカ班とヨーロッパ班に分けますが、中上さんは両方行ってください」というから、招待してくれるのかと思ったら、自分のお金で行けというんだよ。僕らもコンサルタントだから仕事といえば仕事だけれど、リゾート計画をメインでやっているわけでもないし、困ってしまった。しかし、行きがかり上、断るわけにもいかないから「それではヨーロッパだけ付き合います」と。

またもや「行きがかり上」ですね。

真面目な話で面白かったのは、フランスの地中海側で、スペイン寄りの海岸線あたり(ラングドック・ルシヨン:Languedoc-Roussillon)に行った時のこと。もの凄く雑草が生い茂っていて、世界中のあらゆる種類の蚊が住んでいるんじゃないか、というひどい所でね。そこを開発してリゾート地にする予定らしいという話があって、僕は原広司さんの研究室と一緒に欧州の集落調査に行ったときに近くを車で通ったことがあったから「聞いたことがあります」と話したら、「じゃあ、行ってみましょう」ということになった。

実際に行ってみて、現地の人たちに「漁業権の保障はどうなっていますか」と聞いたら、「フランスにはそんなものはない。漁師たちは陸に上がって仕事ができるから安全になると喜んでいる」と言うし、「土地の買収はどうするんですか」と聞いても、「国家の計画だから問題ない。地元も蚊がいなくなるから助かると言っている」と言うんだよね。これは日本とは随分事情が違うなあ、と思ったね。


⑤ドイツ・バーデンバーデンの日本代表事務所になる

確かに日本と違いますね。ここは計画段階とのことですが、実際のリゾート地もたくさん行かれたのですよね。

もちろん。スペインのコスタ・デル・ソルとか、ドイツのバーデンバーデンとかね。あとでレポートを書くために、視察先ごとに担当が割り振られていたんだけれど、バーデンバーデンは僕の担当ではなかったから、前日の視察のレポートをまとめてから行きますと言って、実は温泉プールで泳ぎに行ったんだ。それで少し遅れて行ってみると、市長が昼食会をセットしてくれていて、もう席がほとんど埋まっている。空いている席に座ったら、隣がドイツ人でね。ろくに英語もできないのに、英語で会話をしながらの食事になりそうで、これはまずいなあ、と思ったよ。

最初に挨拶を済ませようと思って、彼に「日本に来たことはありますか」と聞いたら、「無い」というから、「日本に来たら寄ってください」と返してね。さあ挨拶も終わったし食べようかと思ったら、「実はこの秋に日本に行く」と言うものだから、続きを話さないといけない。とにかく、日本の団員に向かって「皆さん、今日案内してくれた、こちらのクラウスさん(Claus Blickle温泉事業団総務部長)が、秋に日本に来るそうだから、皆さんで歓迎しましょう」と言ってね。

実際に日本にいらっしゃって、会長が対応することになったわけですね。

そう。初日だけ誰か付き合ってくれないか、というので僕が付き合ったんだ。でも1週間滞在するというし、日本は初めてだから放ってはおけないよね。それで他のメンバーにも声をかけたんだけど、誰も来てくれない。こちらが行った時はお世話になっているのに、みんな会社の指示で来るような立場だから、こういう付き合い方にならない。

それで毎日、僕が付き合うことになった。炉端焼きは珍しいだろう、とか、すし屋はどうか、とか。パチンコ屋に連れて行っては「これはジャパニーズカジノだ」と言ってね。でも、3日、4日も経つと、連れていくところも無くなってしまった。しょうがないから「うちへ来い」と言ったわけだ。これが良かったんだね。ドイツ人にとっては自宅に招待されることは最高のおもてなしなんだそうだ。クラウスさんとは今でもお付き合いが続いていて今年(2023年)の3月にはご家族が我が家に見えましたよ。

それも会長の気質といいますか、人柄ですよね。視察結果はレポートになったのですか。

そうそう、建設省からレポートが出てね。レポートの中でバーデンバーデンが温泉保養地として紹介されたものだから、日本から大勢の人がバーデンバーデンを訪れるようになったんだ。それで彼も何度も日本に来るようになってね。目黒の私の自宅の近くのホテルに宿泊して、朝は我が家に来て朝食を食べることもあった。

そんな付き合いをしていたら、「バーデンバーデンは観光客を誘致するため海外に代表事務所を置くことができる、すでにイスラエルには一か所出している。日本代表事務所になってくれないか」と誘ってくれた。それでしばらく日本代表として、日本から観光客を送りこむ手伝いをしたんだ。それ以来、その仕事のために訪れることはもちろん、ヨーロッパに出張する機会があれば、日程を調整してバーデンバーデンに立ち寄るようにして、地元の人たちと付き合いを続けてきた。こういう話をすると、「うまいことをやりましたね」と思うかもしれないけれど、そうじゃない。みんなチャンスはあるのに、自分で捨てているんだよ。

バーデンバーデン日本代表の名刺(1990年代のもの)

先ほどの「自分から線を引いてしまう」話にも通じていますね。他には、オーストラリアの視察の写真が残っているのですが。

オーストラリアに新しい都市を作るという日豪の政府プロジェクトに巻き込まれたんだ。名前は「マルチファンクション(多機能)都市、通称MFP」でハードなインフラを整備するだけじゃダメで、「ソフトインフラ」として、そこに何を根付かせるか。僕が考えたコンセプトは「準定住都市」。定住している人はそれほど多くないけれど、人が入れ替わりながらも、いつも数十万人が滞在している。そういう都市をつくろうじゃないか、ということでね。

オーストラリアの各州が日本からの投資をめぐって誘致合戦になっていたから、各州を訪れると夕食は日本人会と、現地の人たちと、どこかの市長と、といった感じで3回はあった。完全に胃をおかしくしたね。

それはそうでしょうね。最終的には、どういう形になったのでしょうか。

推進する組織はできたんだけど、残念ながら、あちらの政権が変わってしまい、日本も息切れした感じだったね。最終的には南オーストラリア州の州都のアデレード(Adelaide)の近郊に小規模な工業集積団地が出来たと聞いている。


⑥リゾートを作らないという提案をする

国内のリゾート計画には、どういう展開があったのでしょうか。

海外視察や計画に関与した経験があったから、国内の企業からもリゾート計画に依頼が来るようになったけど、難しいことが多かった。

ある企業が日本の各地に土地を持っているというので、北海道、四国、秋田県などを回ったんだけれど、どうみても中途半端だから「全部駄目です」と報告したんだ。そうしたら、先方の担当者は「できると言ってください。そうしたら来年はもっと高い金額で発注します」と言うんだよ。できると言えば設計料は入ったかもしれないけれど、後々「あんなものを作って」と言われてはたまらない。

とうとう担当者が泣き言を言い始めてね。「駄目だと決まったら、来年の自分の仕事が無くなる」と。さすがに「やりましょう」とは言えなかった。

それは良かったです。もし、リゾート計画だけで商売をしていたら、なかなか断れなかったかもしれませんね。

同じようなことは、鳥取県でも経験した。米子市内に、100ヘクタール級の埋め立て地があった。そこは戦後に食料事情が厳しかったころ、農地開発として干拓された場所だったんだけれど、高度経済成長の時代になり、農業がそれほど必要なくなってしまい、長年、遊休地だったらしい。でも、借入をして作ったから利子を払い続けている。勿体ないから、何か考えてくれ、という依頼だった。

その土地は鳥取県と米子市の共有だったんだけれど、地元の米子市が所管して、有識者委員会を立ち上げて、計画を作ることになった。僕は「これだけの大きな土地の活用は、米子市全体の都市計画の中で考えるべきだ」と言ったんだけれど、都市計画の担当部署から「これは企画部の仕事であって、うちの仕事のことにまで口出しをするな」と言うんだよね。

全体で考えた方がいいんだけれど、企画部長さん(前述した鳥取県の商工労働部におられた小坂さん)も「仕方がないから、ここでできることを考えよう」とおっしゃる。とにかく何か考えないといけない。ゴルフ場を作るなら、会員権を1,000万円にすれば採算が合う。でも当時は100万円から200万円が会員権の相場で、こんな高い会員権代では誰も買う人がいない。レジャー施設のようなものも考えたけれど、採算が合うほど人が来る見込みが無い。

それは厳しいですね。

レジャー施設が難しいなら住宅地はどうか、という提案があった。堅実な感じがするけれど、人口が15万人弱の町で、この規模の宅地開発を進めたら、売り切るのに数十年かかってしまう。先に道路や上水道などの基盤整備が必要になるから、これも先行投資になってしまう。

僕たちの結論は、「しばらくはそのままにしておいた方がいい」ということだった。ずいぶん叱られたけれど、県庁の商工労働部長さんだけは「なるほど、言う通りかもしれない。これだけの大きい土地は、いずれ利用価値が出てくるだろう」と言ってくれた。

コンサルタントとしては、何もしないという結論を出すのは勇気が必要ですね。仕事としてはこれで終わりだったと思いますが、その後、その土地はどうなったのでしょうか。

実は、この話はリゾートブームの少し前のことだったんだけれど、ブームが来た途端に関西方面の企業からたくさんの引き合いがあったらしいんだ。ところが、どこに売ろうかと企業の品定めをしているうちにバブルが弾けてしまったらしい。勿体ないよね。
しばらくして競馬の場外馬券売り場ができたね。最近、メガソーラー(大規模太陽光発電所)もできたんじゃないかな。

それは惜しいことをしましたね。ところで、会社の様子にはどのような変化があったのでしょうか。所員も増えてきたのでしょうか。


⑦仕事は人と心得る

創業初期の仲間たちは大学の教員になったりして、徐々に自分の道を進んでいったね。オフィスの方は、目黒台マンションの自宅でスタートしたわけだけれど、しばらくして同じマンションの別室に移ってね。段々とそこも手狭になってきて、横浜国大の大先輩(御供さん)が所有していた恵比寿駅の近くのテナントビルに移ったんだ。それが1987年ごろかな。

所員は村越君(村越千春さん。のちの取締役副所長)と田中君(田中章夫さん。のちの計画調査室長)がいて、あとは女性研究員が2人という感じだったね。でもアルバイトの学生は大勢来てくれたね。グラフ1枚描くのも手作業だったから、とにかく人手が必要だったんだよ。

少しずつパソコンを使うようになったのも、この時代だね。当時は、プログラムを自分たちで書いていてね。家庭用エネルギー統計年報はパソコンとプログラムの賜物で、グラフも初期の頃は自作のソフトウェアで描いていたんだよ。

初めてのパソコンで、プログラムも自作となると、相当に大変そうですが。

もちろん大変だったけれど、みんな若かったからね。村越君が頑張っていたよ。幸運だったのは、その道のプロに出会えたことだね。室田さん(室田泰弘さん。湘南エコノメトリクス代表)、槌屋さん(槌屋治紀さん。システム技術研究所所長)たちは、大型コンピューターが世に登場したころからこの道のプロ中のプロで、早くからパソコンを自在に操られていたんだ。皆さんとは長年、一緒に仕事もしたし、本当にたくさんのことを教わった。とても語りつくせないね。

私たち所員も大変お世話になってきました。プロジェクトだけでなく、研究会でご指導いただいたり、著作で勉強させていただいたり。茅陽一先生(東京大学名誉教授、地球環境産業技術研究機構顧問)とのお付き合いもこの時期に深まったのでしょうか。

茅先生の「私の履歴書」(日本経済新聞、2018年12月14日)に紹介していただいたけれど、省エネルギーセンターの委員会でご一緒したのが最初だったね。先生の弟さんが私と同じマンションに住んでいらしたこともあって、すぐに親しくなった。その後、エネルギーに関する本に共著者として参加させていただいたりしたね。

1980年代半ばに大蔵省がソフトノミックス・フォローアップ研究会を立ち上げて、茅先生は1つのチームを率いておられたんだけれど、その研究活動をお手伝いしたことは思い出深いね。

この研究会の大蔵省側の担当者が当時日本開発銀行から大蔵省に出向されていた竹中平蔵さんと、大蔵省に入省されて間もないころの石井菜穂子さん(元・財務省副財務官、地球環境ファシリティーCEO、現東京大学未来ビジョン研究センター教授)だった。お二人は私どものマンションのオフィスにもいらして一緒に議論をしたのも懐かしい思い出だね。また室田さんもこの研究会のメンバーでいらしたよ。

茅先生は温和な人柄だけれど、研究ではものすごく厳しくてね。「中上君、手を抜いていないか」と叱られたこともある。ずっと後(1995年)になって、先生が東京大学を定年で退かれ、慶應(湘南藤沢キャンパス)に移られることになったとき、東京にも事務所が必要でしょう、ということで、その頃にはオフィスを広尾に移転していたんだけれど、先生の席を用意して、特別顧問になっていただいた。それが、鶴崎君(鶴崎敬大研究所長)がうちに入るきっかけにもなったね。

茅陽一先生と中上英俊(1983年)

会社の歩みをうかがっていると、人とのご縁の有難さを強く感じます。

仕事は人だよ。これに尽きるよ。前にも話したように、人付き合いの線を手前に引かないで、どんどん飛び込んでいってほしいね。

第5回に続く

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