住環境計画研究所の歩み

HISTORY

第6回 1990年代(後編)

※この記事は住環境計画研究所の創業者であり、代表取締役会長である中上英俊に対するインタビュー記録(2016年7月5日、7月12日、7月22日実施)に一部加筆して再構成したものです。インタビュアー(青字)は住環境計画研究所の所員です。
本インタビューには研究所長である鶴崎敬大も同席しています。

(1)トップランナー方式の省エネ基準づくりに貢献する

前回、待機電力の問題についてお話いただきました。地球温暖化問題がクローズアップされるようになって、他にも変わってきたことはあるのでしょうか。

中上:テーマとしては、省エネルギーと再生可能エネルギーに注目が集まったわけだけれど、我々としては1970年代の石油危機をきっかけに取り組んだことに似ていて、改めて、需要を精査して省エネルギーと再生可能エネルギーの可能性を検討する、という原点に立ち戻った感じだね。ただ、地球温暖化は石油危機のような一時的な問題ではないから腰を据えて取り組まないといけないし、光熱費が急増して困るというような身近な問題でもないから、これは難しいぞと思ったね。

気になったのは、この頃から、エネルギー消費が増えることを主張しづらくなってしまったことだ。前にも話したかもしれないけれど、欧米では全館暖房・全館空調が当たり前になっているのに、日本の住宅の暖房水準は低いままだった。資源エネルギー庁の資料注1によると、住宅面積のうち暖房される面積の割合は1988年の時点で3割に満たなかった。これは建築の専門家の責任だと思うけれども、ヒートショックを起こすような住宅のままで良いはずがなかったんだ。

だから僕は、きちんと暖房されている状態をベースラインにして、そこから断熱性能や機器効率を引き上げるなどしてエネルギー消費を減らしていくべきだと言ってきたんだけれど、充足水準よりずっと低いところがベースラインになってしまった。京都会議(1997年)で温室効果ガスの削減目標が-6%(1990年比で2008~2012年の平均)に決まったとき、米国は-7%、欧州は-8%だから日本の目標は物足りないなんて話もあったけれど、ベースラインの違いを踏まえずに、削減率の数字だけを比較した雑な議論だったよ。日本が-6%なら、欧米はもっとできたはずなんだ。

注1)通商産業省資源エネルギー庁編「エネルギー新潮流への挑戦 総合エネルギー調査会中間報告」1990年10月、p.7

日本は先進国として横並びで見られてしまったのでしょうか。実態を踏まえた議論が必要でしたね。話を戻しますが、テーマとして省エネルギーと再生可能エネルギーは新しいものではなかったとのことですが、前回お話いただいた待機電力以外に何か新しい話題はありますか。

中上:この時代に住宅・建築物や機器の省エネ基準が強化されたね。住宅の省エネ基準の改正に関する検討は、長年、プロジェクトを受託する形で取り組んでいて、これは今も続いているから、我々にとっては重要な仕事だよ。当時はまだ躯体性能に関する基準だけで、1999年基準は「次世代基準」とも呼ばれたけれど、特に画期的な目標ではなかった。1992年の改正からわずか7年で基準を引き上げたこと自体は評価できるけれども、従来どおりの努力目標だから、インパクトは弱かったかもしれない。

一方で、機器の省エネ基準の方は画期的な変化があった。これはプロジェクトではなくて、総合エネルギー調査会(2001年から総合資源エネルギー調査会)に委員として参加することを通じて関わってきたんだ。1998年の省エネルギー法の改正では役所も気合が入っていたよ。ちょうど京都議定書が採択された直後だったので省エネルギーについても極めて積極的に取り組んでいたような気がする。エネルギー消費効率の基準値の決め方を変えて、その時点で市場にある製品の中で最高のエネルギー消費効率を基準値のベースにしたらどうか、と私が提案したのがきっかけだった。業界からは猛反発を受けた覚えがある。それに対して当時の省エネルギー石油代替エネルギー対策課長の野口泰彦さんが協力に押してくれてそれで行こうということになった。先頭に立つ省エネ機器の基準ということでトップランナー方式と呼んだ。それまでは、平均的なエネルギー効率の推移や省エネ技術の状況を見ながら決めていたんだけれども、高効率の製品が既に市場に投入されているのならば、これをベースに基準を決めたらどうか、という話になったんだね。1984年に一度廃止されていた冷蔵庫の省エネ基準が、1999年にトップランナー方式で復活して、エアコンなどの機器も続々と見直されることになったんだ。

トップランナー方式はとても厳しい基準だと感じますが、後の記録をみると、しっかり達成されていますね。

中上:機器の省エネ基準はメーカーに対する規制になっていて、国内で競争しているメーカーはお互いに未達成は体面が悪いというか、許されないものだということは分かっている。ライバルも同じ条件だと思えば、省エネ設計や省エネ技術の採用は進んでいくんだね。

前回も話したように、この時代から欧米の会議で日本の省エネ事情を発表するようになったわけだけれど、このトップランナー方式の省エネ基準についても報告して、欧米の研究者たちから、日本は徹底している、と評価されたんだよ。ところが、「英語では先頭ランナーのことをトップランナーとは言わない。フロントランナーだよ」と言われてしまってね。和製英語だと気づいて恥ずかしかった。でも、聞きなれない言葉だからこそ、彼らに印象づけられたかもしれないし、何よりその後欧州でも最も厳しい省エネ基準のことをトップランナー方式というようになったのには驚いたよ。

もちろんこの制度も万能という訳ではなくて、問題が生じたこともあったけれど、見直しをしながら上手に進めてきたのではないかな。

トップランナー方式の省エネ基準について、1999年のeceee Summer Studyで報告


(2)住宅用太陽光発電プロジェクトに参画する

記録によると、住宅用太陽光発電に関するプロジェクトが1997年から始まっていますが、これは新しいテーマではありませんか。

中上:太陽光発電は1970年代にはまだ現実的ではなかったから、これは新しい話だったね。ここに至る経緯があって、最初は生活クラブ生協の方々が、ライフスタイルと家庭のエネルギー消費の関係を調査して、省エネルギーに取り組もうとされていた。そこで我々が調査の方法からデータの見方やまとめ方などを指導することになった。こちらに通ってもらって、一緒にアンケート票をチェックしたりもしながら、進めていったんだ。

こうして信頼関係が築けたところで、東京と神奈川の生活クラブ生協が、東京電力と住宅用太陽光発電に関する共同プロジェクトを実施するという話が出てきたんだ。これは、東京電力が設置費用の一部を補助して、生活クラブ生協の組合員から募ったモニターのお住まいに3kWくらいの太陽光発電を設置し、3年間くらい発電量や日射量などのデータを計測して、その実力を評価しようではないか、という趣旨でね。原子力発電を進める東京電力と、反対の立場の生活クラブ生協が、一緒に活動する訳だから興味深いよね。そこに、データ評価者が必要だということで、我々が関わることになったんだ。

イメージだけでなく、データに基づいてエネルギー問題への理解を深めていこうということでしょうか。プロジェクトの規模はどれくらいだったのでしょうか。

中上:最終的には130件くらいの住宅に導入されたと思う。計測データは発電量だけでなく、売り・買いの電力量もあって、これが1時間ごとに記録されている。半分くらいの住宅では、日射量と太陽電池の裏面の温度も計測していた。温度が上昇すると変換効率が低下する性質があるからね。計測はメーカーが担当していて、我々は計測データを分析する立場だったんだ。データだけでも太陽光発電システムの実力の評価はできるけれど、生活との関係は見えてこないから、アンケート調査も定期的に行って、省エネの取り組みや意識、電気以外のエネルギーの使用状況なども調査させてもらったね。

細かいことは当時、担当していた鶴崎君(研究所長)に聞いてもらうといいけれど、僕が印象的だったのは、アンケート調査かインタビュー記録に書かれていた太陽光発電を設置した感想でね。ある家庭で、お母さんは「電気代の節約になって、売電の収入もあって助かる」と言って、お父さんは「これで地球温暖化問題の解決に貢献できる。」と言っているんだけれど、子供は「これで晴れの日は電気が使い放題だ。」と言っていてね。この子供の気持ちが一番素直だな、と思ったね。こういう視点をないがしろにすると、現場と感覚がずれていくんだよね。

なるほど。自宅で電気がつくれるというだけで、驚きだったのでしょうね。せっかくなので鶴崎さんにもうかがいたいと思いますが、このプロジェクトで何かエピソードはありますか。

鶴崎:私は、東京大学を退官されて慶應義塾大学に移られていた茅陽一先生のもとで大学院(修士課程)を終えて、1997年4月に住環境計画研究所に入社しました。

この太陽光発電プロジェクトのことは入社前から聞いていたのですが、ぜひ担当したいと思っていました。実際に業務が始まったのは1998年になってからだったと思います。太陽光発電の性能評価は先輩の田中さん(田中昭雄さん、主任研究員(当時))が担当されることになって、私はエネルギーの使い方や意識に関するアンケート調査を中心に担当しました。例えば、経済性に着目して電気の契約を時間帯別電灯契約に変更すると良いとか、パネルの日射遮蔽の効果で冷房の電気使用量が減った兆候があるといった、周辺の検討をしていました。

思い出深いのは、2年目から現地調査に同行させてもらったことです。建築士の方や生活クラブ生協のスタッフの方と一緒に、10件くらいのお宅を訪問して、周辺に日陰の原因はないかといった技術的な側面や、ご家庭で太陽光発電の発電量をチェックしているか、電気やエネルギーの使い方に変化はあったか、といったことをインタビューしました。会長から、電気が使い放題だ、というお子さんのお話がありましたが、大人たちはやはり「日中は電気を節約して少しでも多く売ろう」という感じでしたね。ただ、自宅で発電できることを喜んでいる人がとても多かったのが印象的でした。現地調査だけでなく、設置者の交流会も定期的に開催され、そこでもたくさんの体験談を聞かせていただきました。

設置者の皆さん、東京電力や生活クラブ生協など多くの関係者の皆さんと議論しながら取り組めたことは、今振り返っても貴重な経験でした。

住宅用太陽光発電システムの現地調査にて撮影(1999年8月頃)

太陽光発電の性能の方はどうだったのでしょうか。

鶴崎:実質的に計測の初年度となった1998年度は、首都圏では非常に日射量の少ない年だったので、発電量は満足できる水準ではありませんでした。交流会にはメーカーの方も参加していたのですが、設置者を前に、汗をかきながら説明されていたように思います。私たちも、日射量を基準にした評価が非常に重要だと痛感しました。

3年間の計測期間を通じて、平均的には期待通りの性能だったと総括していますが、驚いたのは発電量のばらつきの大きさです。同じ首都圏でも設置エリアによって日射量は違いますし、屋根も理想的な南向きばかりとはいきません。設置費用はどこも300万円程度(当時は1kW当たり100万円程度)で変わらないのに、発電量にかなりの差が出ることは、何とかならないだろうかと感じましたね。

比較されてしまうと、納得して設置したとしても、少ない方の方はがっかりするかもしれませんね。故障などは無かったのでしょうか。

鶴崎:この3年間では大きなトラブルはありませんでした。落雷で通信装置が故障してデータが取れなくなったことはありましたが。ただ、メーカーからリコールが出て、パワーコンディショナーが交換になったことがありましたね。

故障ではありませんが、3年間の計測が終了した直後、2000年の秋に大きな問題が発覚しました。三洋電機(当時)製のパネル(太陽電池モジュール)に、日本工業規格(JIS)で定められた出力を下回るものが混入していたんです。一枚でも該当した場合は、すべてのパネルが最新のものに無償で交換されました。この件は、評価を担当した研究機関として責任を感じましたね。言い訳になりますが、このような計測だけで問題を見抜くのは難しかったと思います。下回るといっても全然駄目な訳ではなくて、10%未満の影響でしたので。その後、現場でも性能検査ができる装置が開発され、問題を見つけやすくなりましたね。

新しい技術を導入していくときは、様々な問題が出てくるわけですね。

鶴崎:そうなんです。このプロジェクトは研究のために始まりましたが、生活クラブ生協を中心とするスタッフの皆さんが、メーカー・施工業者との間に立って折衝にあたってくださったので、設置者の皆さんはとても安心だったと思います。

鶴崎がACEEE Summer Studyで住宅用太陽光発電プロジェクトの成果を報告(2000年8月)


(3)審議会では消費者・需要家の視点で発言する

トップランナー方式の話題のなかで、審議会の話がありましたが、記録によると会長は1980年代の終わり頃から参加されていますね。

中上:総合エネルギー調査会(当時)に関しては、1989年に需給部会、省エネルギー部会、それから総合部会の長期展望小委員会に参加したのが始まりだったね。当時44歳だったから、委員の中では圧倒的に若かったんじゃないかな。需給部会には業界団体のトップや大学教授が並んでいて、そこに「(株)住環境計画研究所所長」という肩書で参加している訳だから、「この人は誰だ?」と思うよね。挨拶に行ったら、随行者だと思われたこともある。そういう時こそ頑張って発言すると、会議後に名刺をくれたりしてね。

審議会への参加は他省庁(環境省、国土交通省ほか)も含めて増えて行って、今も続いているね(2016年当時、総合資源エネルギー調査会の省エネルギー小委員長。2019年退任)。ベテランの所員も参加するようになって、我々のような小規模のシンクタンクとしては異例なことだと思うよ。

審議会では意見の衝突も多いと思います。会議に臨むにあたって、どのようなことを心掛けてこられたのでしょうか。

中上:常に心掛けてきたことは徹底的に消費者、需要家の現場の立場から議論するという心構えを貫いてきたことだと思うよ。エネルギーの議論はどうしても供給サイドに力点が置かれがちになるが需要家がどのようにエネルギーを使っているかということを起点にして発言してきた。特に私たちが得意とするのは民生部門の家庭用だったので、すべての委員にとっても我がこととしてエネルギーを考えてもらえるきっかけになると信じていた。しかし残念だったのは特に民生部門はデータベースが完備されておらず、供給サイドのデータからの推計といった形であったことかな。需要構造分析を行うにはこのようなデータベースの整備が不可欠だと、その後何十年も言い続けてきたわけだ。やっと最近になって家庭部門のこうした統計が環境省との足掛け7年に及ぶ交渉と検討で実現したことは私の誇りでもあるよ。

また、審議会ではできる限りほかの委員の方々と議論を交わすことを心掛けたよ。最近ではとてもそのような意見交換の時間すらないのが問題ではないのかな。

長い間、同じことを発言し続けるのは、とても骨が折れることだったと思いますが、時代とともに審議会も変わってきたのでしょうか。

中上:審議会に30年以上も在籍したことがいいかどうかは別にして、私のこれまでの経験からすると、民主党政権時代に審議会の構成が大きく変わってしまったことではないかな。できるだけ大勢の関係者に参加していただくことはいいのだけれど、人数が多すぎると意見の言いっ放しで終わってしまい、議論一つできないこと。それと委員の構成がガラッと変わってしまったこと。特にエネルギーにあってはエネルギー事業者や大口のエネルギー需要家団体の方々の意見や考え方を聞くのは必須だと思うけど、審議会では二次的な情報に格下げされてしまったような気がする。同じテーブルで同じ目線で真剣な議論をすることが必要だと思うがどうだろうか。

ここ数年は新型コロナのせいもありウェブベースでの審議かがほとんどになってしまったから、ますます白熱した議論からは遠ざかってしまったような気がする。

確かに委員が順番に発言して役所が回答して終了してしまう会議も多いですね。政府だけでなく、文京区や倉敷市など自治体の環境委員会にも参加されてきました。

中上:文京区は非常に熱心で長年、応援してきた。ありがちな環境部署中心の会議ではなくて、他の部署からも部長クラスが正式なオブザーバーとして参加して、区役所全体として情報が共有され実行されていく体制になっているんだよね。区長さんの明確な指示と思い入れが有ったからだと思うよ。倉敷市の方は、倉敷市役所から経済産業省に出向されていた方が国元に帰られたときに相談を受けて会長をお引き受けすることになったんだ。ちょうど僕の出身地が岡山県だから縁を感じてね。

社外での活動としては、大学での講義や講演も随分されてきました。

中上:講義に行った大学を数えてみると10を超えるね。筑波大学の先生に頼まれて、毎週講義したのが最初だったんだ。その後、石原修先生の熊本大学を皮切りに、鹿児島大学、九州大学、九州芸術工科大学(現在は九州大学に統合)、北九州市立大学と、九州では随分と講義をしたね。その他横浜国立大学、慶應義塾大学、早稲田大学、東京大学などでも講義をしましたよ。東京工業大学でも長くやったね。

大学での講義を受け持つことにはどういう意義があったと思われますか。

中上:やっぱり次世代を担う若い人たちに向かって、自分の考えや基本的な知識を伝えていくことは、やりがいのある仕事だよね。学生に海外文献を読んで発表するという課題を出したことがあるんだけれど、学生たちの発表からこちらも学べることがあるし、若い人の考え方に触れられるのは貴重だよ。

意図していた訳ではないけれど、僕の講義を聞いて住環境計画研究所を志望して、入社した人も多いんだよ。先生とのお付き合いで講義をしているから、先生のところの学生さんと知り合うきっかけにもなる。

確かに会長の講義や大学の先生とのお付き合いがきっかけで入社した人が多いですね。鶴崎さんも茅先生と会長とのお付き合いがきっかけで入社されたのですね。

鶴崎:そうですね。私が大学院生だった頃、茅先生が主宰している海外の論文を読む勉強会(通称、ジャーナル研)がありまして、偉い先生方の前で若手(研究所の若手研究員や大学院生)が読んできた文献を紹介して、至らない点を指導していただくという恐ろしいありがたい会なのですが、私も1回、報告させていただきました。その勉強会が住環境計画研究所の会議室で開催されていたのと、当時、茅先生が住環境計画研究所を都内の活動拠点にされていたので、自然とご縁ができました。普通の就職活動もしていたのですが、詳しく話を聞いているうちに、小さい会社なのに凄い仕事をしているなと感じて、自分が何をできるかも分からないまま飛び込みました。

実は、私自身も大学で非常勤講師をしたことがありまして、出身校(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科)で、清水浩先生からの依頼でした。講義の準備で毎週末、苦しい思いをした記憶がありますが、やはり学生から課題の成果を発表してもらって話し合ったことが印象に残っていますね。残念ながら、就職希望者は現れませんでしたので、会長の話術をもっと学ばなければと思っています。

最後に、1990年代の会社の様子を教えていただけますか。創業期から20年が経って、変わったこともあるでしょうか。

中上:会議や出張が多くなって、留守にすることが多かったと思う。プロジェクトのことは村越君(村越千春さん、元・取締役副所長)をはじめ所員の皆さんにほとんど任せていたね。

鶴崎:確かに会長(当時は「所長」とお呼びしていました)は外出やお客様の対応をされていることが多く、お話しする機会は少なかったですね。外で、お酒をのみながらお話しすることの方が多かったように思います。

私が入社した頃、オフィスは広尾高校のそばにありました。恵比寿駅から坂を上って10分くらいの所です。記録によると1994年に移転していますね。当時は10名くらいの規模で、年間20~30件のプロジェクトが動いていました。若手研究員は村越さんの指導のもとで取り組み、ベテラン研究員は自立して取り組む感じでした。今と比べると、チームで取り組む業務が少なかったと思いますが、オフィスはコンパクトでしたし、電話やファックスでの連絡が多かったので、周りの皆さんが取り組んでいる内容が自然に把握できました。

社会人1年目はやはり印象深いです。ちょうど京都会議のあった年で、前回の記事にありましたが、待機電力などで会長のインタビューがメディアに取り上げられる機会も多く、自分はまだ何もしていないのに、嬉しかったですね。

ありがとうございました。次回から2000年代に入ります。

第7回に続く

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