住環境計画研究所の歩み

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第2回 創業初期(1970年代)

※この記事は住環境計画研究所の創業者であり、代表取締役会長である中上英俊に対するインタビュー記録(2016年6月22日に実施)を再構成したものです。インタビュアー(青字)は住環境計画研究所の所員です。

①農村計画を通じて現場の実態と政策を結び付けることを志す

第一次オイルショックから、エネルギーの仕事ができるようになったんですか。

全然。最初は宮崎でのご縁から農村計画ばかりだったね。当時の農林省で農村総合整備モデル事業という、農村をきちんと整備していこうという事業ができたんだよ。都市計画はあるけれど、農村計画はないから、こっちもきちんとやろうということでね。この事業は当時の総理大臣だった田中角栄さんが「日本列島改造計画」という一大プロジェクトを提案されたんだが、その一つだったんだね。

経歴書に「宮崎県西諸県郡野尻町農村総合整備モデル計画」とあります。

そう。最初が野尻町(現・小林市)だね。農林省の補助金で町と契約した。この計画が九州の代表事例になって、さらに西日本の代表事例にもなった。それを持って中央に来て、僕らが発表したわけ。

どういうところが評価されたのでしょうか。

すべての集落の診断をして、問題点を拾い上げていく作業をやったんだよ。現場の人から話を聞いて、そこを尋ねてまわって、本当に整備が必要かどうかをチェックして、地図に落とし込んでいくという作業をね。定性的にならず、もちろん恣意的にもならず、指標化しようという提案をしたんだ。色々な指標を使ったね。それがすごく新鮮に受け止められたんだよね。

当然、国からの文書にも「こうしなさい」と書いてあるんだけれど、何しろ国でも初めてのことだから、現実がどうなっているか分からない段階だったんだよ。それに対して、僕らが現場からの経験として「このスペックではできないから、こうした方がいい」とか、「小さい町も大きい町もあるから、地図の大きさまで規定するのはおかしい」とかね。農林省に文句を言いに行ったりしていた。

農村計画の現場で膝詰め議論(宮崎県日之影町)

これがもう1つの現場主義の原点なんですね。他の町でも計画を行ったようですが、こうしてビジネスが軌道にのったのでしょうか。

いや、そうでもなくて、川南町、国富町、西郷村(現・美郷町)、田野町(現・宮崎市)、北郷町(現・日南市)、綾町、日之影町、佐賀県の山内町(現・武雄市)までかな。野尻町の計画費が80万円から100万円くらいだったんだけれど、東京から宮崎まで飛行機で出かけていくので、全然採算が合わない。1週間だと往復割引があるので行くときは必ず1週間滞在した。それでも航空会社に何割か払っているようになってしまう。当時は格安切符も無かったからね。

ところが、計画の中には必ずハード(施設)があって、農村環境整備センターなる施設の設計があると500~600万円になる。僕らも一級建築士事務所だから受注資格はあった。でも、全然受注できない。計画を作っている側だから内情は分かっているというのにね。政治的な力で全部地元の業者に決まってしまう。

計画の方もね、最初は全国80か所くらいのモデル事業だったんだけれど、農林省の方で軌道にのったということで、翌年から件数を大きく増やしていった。そうすると、お金の受け皿の財団ができて、そこを通らないと仕事が流れない仕組みになった。頭に来てね。もうやるもんかって、放り出したんだよ。


②住宅の省エネルギー基準につながる検討を行う

せっかく良いスタートを切れたように見えましたが、苦労があったんですね。エネルギーもまだビジネスになっていないようですが、1976年に「住宅における断熱材使用に関わる総合的省エネルギー効果の分析調査」を実施していますね。

科学技術庁だね。これが無かったら、我々はエネルギーの業界で今のようにはなっていなかったと思う。科学技術庁に資源調査会という審議会があって、そこに日立製作所の方が出ていたわけ。僕らは日立に対してこのテーマに関する報告をしたと思う。それを審議会で説明することになったから一緒に来てくれ、ということで僕が行ったわけですよ。

そこで色々説明したんだけれど、今にも通じる面白い話があった。住宅に断熱材を入れてどれくらい省エネになるかを計算して、全国大での効果をグラフに示したりしてね。当時、断熱材のメーカーは、断熱材を入れればすごく省エネになると言っていた。僕は「現実にはそんなに省エネ効果はない。潜在的にはあるかもしれないが」と言ったら、「省エネに顕在も潜在もあるか」って言われて。それで、側面に穴のあいたバケツの例え話をしたんだよ。

バケツ理論はここからでしたか。

満タンになったバケツの穴をふさげば、確かに水漏れは無くなる。でも、水が下から3分の1しか入っていないときに、上の方の穴をふさいだって、何も変わらない。つまり、元々大した暖房をしていない住宅に断熱材を入れたところで、減らせる量は少ない。もっと水が満ちてくれば、その時に効果を発揮するわけだ。だから、将来の省エネ効果は潜在的にはこのくらいだということなんだよ、と。

こうして喧嘩を売るようなことを言ったものだから、日立の人から「俺は責任取れないから、次もお前が出てきて話せ」と言われてね。そういうことで続けているうちに、科学技術庁の課長さんから「あれは誰だ」ということになって、当時、関西電力から科学技術庁に出向していた担当の方が、「日立の下請けです」と伝えたところ、「面倒みてやれ」という話になったらしい。

科学技術庁の歴代担当者の方のエピソードもよくうかがっていましたが、よく発注してくれましたね。

有難い話だよ。後から聞いたら担当者と課長の間でいろいろ相談があったそうでね。「マンションの一室で仕事をしているようです」「いやそれは聞かなかったことにしよう」とか、「国の事業の実績はないのか?」「農林省の事業をやっているみたいです」「それでいけ」とかね。当時は今のような公募方式ではなかったけれど、やはり実績が必要だったね。

この時の研究が、今の建築物省エネ法につながっていると思うんだけど、住宅の省エネ基準をどのように決めるかを考えたんだ。寒い地域と暖かい地域では、断熱基準の厳しさを変えるべきで北海道から九州まで確か4地域に分けて、戸建住宅と集合住宅に分けてQ値(熱損失係数)を設定したんだ。本当は全国どこでも暖房代が同じくらいになるようにしたかったけれど、さすがに北海道ではそこまで減らせなかった。

そうしたら当時、別の仕事で付き合いがあった建設省の課長から「君、何をやっているんだ」って話になった。

地域区分と断熱基準の原型ということですね。そのころ、「木造住宅の供給量の合理化刷新事業計画策定調査」の実績がありますね。

それかな。とにかく建設省の課長が「エネルギー?なんでそんなことやっているんだ?」と言う訳ですよ。それでこういうことですよって説明したりしていたら、今度は通産省の方から、住宅の省エネルギー基準を定めたいからどうしたらいいかという相談があって、どちらにも通うようになったんだね。

1977年から78年ごろに急激にエネルギーに関する調査が増えていますね。プロジェクト数が二桁になっている。

第一次オイルショックから時間が経って、ようやくね。この頃から通産省とも付き合うようになったけれど、民間ではガス会社からも仕事が来ていると思う。逆に、大工や工務店問題などの仕事はほとんどなくなった。


③株式会社に移行し、徐々に所員も増えていく

大工・工務店問題について、私たちはもう分からないんですよね。

知らないだろうね。要するに、建設省の所管でも大工・工務店はほとんど手つかずで、住宅産業もなかったしね。前にも話したように、これからは工業化住宅だという機運になって、そうしたら在来工法はどうするんだ?という話が出てきて、研究会が立ち上がったわけね。高度成長期になって、技能労働者が不足してくる。大工さんになる人がいない。その不足をどうやって補うか、機械化するか、とかね。

関連団体がいくつもあって、立場もさまざまで苦労されたという話もありましたね。ところで、株式会社としての設立は1976年1月ですが、何かきっかけがあったのでしょうか。

法人化しないと国と直接契約できないからね。科学技術庁の話があったころだったと思う。そのとき、村尾さんの事務所で会計を担当されていた片山(惠子)先生が独立されて、うちの会計をみてくれることになった。

当時、事務所(会社)はどのような様子だったのでしょうか。会長自ら現場に入って、ペンを取って報告書を書いて、交渉や報告も行って、ということのようですが、サポートの方もいたのでしょうか。

いや、帳簿から掃除まで全部自分たちでやっていたんだよ。サポートの人を雇うなら、その分、みんなで分けた方がいいんじゃないの、ということでね。

この頃の所員は村越さんだけでしたか。

田中君(田中章夫さん。のちに計画調査室長)も居たんじゃないかな。まあ、いろいろな人が出たり入ったりしていて、大体3~4人でやっている感じかな。アルバイトの学生もたくさんいたし。今でも付き合いがある野口君とかね。

野口さんもよく忘年パーティに来てくださいましたね。エネルギーの調査・研究は主に家庭が対象で、広くいえば民生部門なんでしょうけれども、実態調査が中心だったのでしょうか。あるいは将来予測などもやっていたのでしょうか。オイルショックがあったとはいえ、高度経済成長の時代の記憶も新しい頃です。

いや、将来予測はもう少し先に室田さん(室田泰弘先生。経済学者。埼玉大学助教授から湘南エコノメトリクス代表)たちと付き合うようになってからで、基本は実態調査だね。

当時の報告書にはまだ手書きのものもありますね。

全部手書きだよ。手書きのままのこともあるし、原稿を渡して写植、印刷、製本してもらうこともあった。ワープロもまだ無かったしね。グラフも手書きだからね。

創業当初は資金繰りも大変だったのでしょうね。

それはもう大変だよ。何しろ手形払いもあったからね。3か月後にやっと現金を手にするというね。役所とエネルギー会社は現金払いで助かったね。だから絶対に締切に間に合わせようと頑張った。


④コミュニティエネルギーシステム研究会に参加する

この頃、コミュニティエネルギーシステムの仕事がありますね。

CESだね。チェスと呼んでいて、1975年に研究会から始まった。今で言うコージェネレーションのまさに立ち上げの研究会だった。東大の平田賢先生が呼びかけてね。この時代は高度経済成長期だから、東京電力で発電所の立地が追い付かなくなっていた。局所的には停電も起きかねないということで、地域に小型の発電所を緊急避難的につくって、何とか乗り切れないだろうかと。それが始まりだった。

平田先生は、地域に小さい電源をつくると効率が悪いから、複合化して効率を上げるべきだとおっしゃった。ちょっと専門的になるけれど、まずガスタービンで発電して、その排熱の温度はまだ高いから今度は蒸気を発生させて蒸気タービンでもう一度発電する。こういうコンバインド発電で効率を50%近くまで上げようと。さらに排熱を地域の熱供給に使いましょうと。

初期の頃は東京電力と東京ガスが参加していて、関西電力もいたかどうか、くらいだね。東京電力の片倉さんとはそこでも一緒になった。上司の加納時男(元副社長、参議院議員)さんと平田先生のご縁だったそうだ。

CESの展示(日本ガス協会)を受注した。写真は内覧会の様子。

コージェネレーションの始まりは、電力危機だったのですね。会長はどうして関わったのでしょうか。

1975年にスタートしたとき、メンバーには勝又一郎君という平田先生のお弟子さんがいて、彼はIHIでジェットエンジンの設計者をしていて、ガスタービンはジェットエンジンだから、彼がガスタービン部分を検討することになった。下流の方の熱利用をどうするかということになったとき、「建築だからお前できるだろう」と勝又君から僕が呼ばれたんだよね。友達だったから。平田先生の弟子中心の研究会で、僕だけが部外者だったわけですよ、ここでも。

でも、地域で熱供給といっても、日本の住宅はセントラルヒーティングも無くて寂しい暖房状況だから、いくら熱が有っても誰も買えませんから難しいですよ、という話をした。

元々電力会社の事情で始まった研究会なんだけど、ガス会社からみれば新しいガスの需要になるという期待が高まった。ところが5年くらい経って電力の供給に余裕が出てきたら、電力会社の方で「余計なことをするな」という話になったんだろう。片倉さんも離れていったんだよね。それでガス会社がフォローしていくことになった。

だからコージェネレーションの始まりは電力とガスの協調のシンボルだったんだよね。それがいつの間にか対立のシンボルになってしまった。

会長は、「省エネは困ったときの駆け込み寺」とよくおっしゃっていましたが、コージェネレーションにもそういう歴史があったのですね。そろそろ1970年代も終わりそうですので、この辺で一区切りとしたいと思います。

ぜひ皆さんに理解してもらいたいのは、人はやる気になったら色々なことができるということですよ。わざわざ自分で自分の世界を狭くするのは勿体ない。

農村計画も、大工・工務店問題もやった。また話すけれど、リゾート計画もやったしね。エネルギーだけじゃないんだよ。村越君も設計志望でうちに来て農村計画をやって、次第にエネルギーもやるようになって、最後は博士号まで取った。だから君たちもエネルギーしかできない、なんてことは無いんだよ。

生で聞くと響きますね…。書面では十分に伝わらないかもしれませんが。今日はありがとうございました。

第3回に続く

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